This is me,This is my life

「たくさんの幸せをありがとう。
世界一の幸せ者だったよ」

「あなたは誰も幸せにはできないわ」

この2つのセリフは、
過去どちらも実際に頂いたもの。

文脈も違えば、相手も異なるのだが
“幸せ”という概念を用いて
僕と僕の関係性を評している。

もちろん表面的な言葉だけでは
表現仕切れていない背景や感情も
あるだろう。

自分の中で曖昧なまま
なんとなくの雰囲気で
それっぽく
使っていることもあるだろう。

いずれにせよ、
幸せ・幸福という言葉、概念、世界観、KIGOは
老若男女、洋の東西を問わず
歴史も国境も超えて使われている。

ではいったい
幸せとは何だろうか。

辞書やウィキペディアによる
一般的な幸福の定義は
Google先生に聞けば
すぐに教えてくれる。

三代幸福論といわれる
ヒルティ、アラン、ラッセルの論究。

また、福田恆存や椎名林檎などの
ジャパニーズ幸福論。

いろんな人がいろんな立場で
幸福について考察している。

あなたは幸福を、
幸せをどう考える?

幸福はみんなが目指すべきところで
言葉では定義しにくいぼんやりしたものだと
捉えているが、あえて自分なりに定義するとしたら

永続的に純粋性の満たされた状態を
自他ともに深く捕らえて循環していること

としている。

縦も横も時間もないような状態。

そして、そこに近づくための活動もセットで
幸福と定義している。

幸せになろうとしてなるものではなくて
(志向はするが)自己完結するものでも、
ふたりが良ければ良いというものでもない。

人間や人間以外もそうだが、
まったくの無垢でまっしろな
ピュアな状態で誕生する。

生の過程において、
いろいろんなものとバーターで
純粋性はすり減ってくる。

それでも洗濯をして、
聖なる時間によって
純粋性を取り戻したり、
また汚れたりを繰り返しながら
純粋性の過不足のゆらぎの中で
僕たちは生きている。

目に見える心身の不調や
気分の高揚など周りで
起きるイベント含めて
好不調のバロメーターであり、
幸福の現在地を教えてくれるものだと
思っている。

僕だけの幸福というのは部分としては
存在するかもしれないが、
それだけでは不十分で。

僕とあなたが満たされている
というのも先ほど挙げた
僕自身の幸福の定義からしたら
ちょっぴり足りない。

僕が満たされて、あなたもワクワクして、
そして、その黄金のエネルギーが
シナジーを起こして社会、世の中を
さらにキラキラと輝かせいくもの。

自堕落な享受ではなく、
一時的な快楽を求める考え方や生き方でもなく、
永続的な循環を生み出すもの。

お祭り的などんちゃん騒ぎの楽しさに
幸福はなく、むしろ時空間の制限を超えた
暖かい心の拠り所、、、純粋な状態だと
僕は考えている。

愛国心、
日本人としての誇りみたいなものは
希薄だけど、
あったかいお味噌汁に白いご飯、
ちょっとしたお漬物が
僕の考える幸福論のメタファーかな。

そして、そんなお味噌汁と白いご飯、
ちょっとしたお漬物の暖かさに感謝しながら
隣の人や遠くの人にもお裾分けできるように
活動していくことが人生だとも思う。

令和のスタートに晴れやかな気持ちを
迎えつつ、自分の生き方、幸福について
考察してみた。

最後に林檎嬢の幸福論から、、、

本当のしあわせを さがしたときに
愛し愛されたいと考えるよになりました。

そしてあたしは君の強さも隠しがちな弱さも汲んで、

時の流れと空の色に何も望みはしない様に
素顔で泣いて笑う君にエナジィを燃やすだけなのです

本当のしあわせは目に映らずに
案外傍にあって気付かずにいたのですが…。

かじかむ指の求めるものが 見慣れたその手だったと知って、

あたしは君のメロディーやその哲学や言葉、全てを
守る為なら少し位する苦労もいとわないのです。

時の流れと空の色に何も望みはしない様に
素顔で泣いて笑う君のそのままを愛している故に

あたしは君のメロディーやその哲学や言葉、全てを守り通します。
君が其処に生きているという真実だけで 幸福なのです。

幼少期より私が影響を受けた人たちから学んだことは「成長」と「挑戦」です。自己研鑽しチャレンジし続ける。その姿を通じて次世代を担う若者達、 同世代のリーダー達と役割を発見し、希望をもたらすことが自分の使命だと思っています。

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